最高裁判所第一小法廷 昭和52年(オ)177号 判決 1980年4月10日
上告人
本門寺
右代表者
吉田義誠
右訴訟代理人
松井一彦
外四名
被上告人
森本正明
右訴訟代理人
島田武夫
外二名
主文
本件上告を棄却する。
上告費用は上告人の負担とする。
理由
上告代理人松井一彦、同中根宏、同落合光雄、同大谷昌彦、同市野沢邦夫の上告理由第一点について
本訴請求は、被上告人が宗教法人である上告人寺の代表役員兼責任役員であることの確認を求めるものであるところ、何人が宗教法人の機関である代表役員等の地位を有するかにつき争いがある場合においては、当該宗教法人を被告とする訴において特定人が右の地位を有し、又は有しないことの確認を求めることができ、かかる訴が法律上の争訟として審判の対象となりうるものであることは、当裁判所の判例とするところである(最高裁昭和四一年(オ)第八〇五号同四四年七月一〇日第一小法廷判決・民集二三巻八号一四二三頁参照)。そして、このことは、本件におけるように、寺院の住職というような本来宗教団体内部における宗教活動上の地位にある者が当該宗教法人の規則上当然に代表役員兼責任役員となるとされている場合においても同様であり。この場合には、裁判所は、特定人が当該宗教法人の代表役員等であるかどうかを審理、判断する前提として、その者が右の規則に定める宗教活動上の地位を有する者であるかどうかを審理、判断することができるし、また、そうしなければならないというべきである。もつとも、宗教法人は宗教活動を目的とする団体であり、宗教活動は憲法上国の干渉からの自由を保障されているものであるがら、かかる団体の内部関係に関する事項については原則として当該団体の自治権を尊重すべく、本来その自治によつて決定すべき事項、殊に宗教上の教義にわたる事項のごときものについては、国の機関である裁判所がこれに立ち入つて実体的な審理、判断を施すべきものではないが、右のような宗教活動上の自由ないし自治に対する介入にわたらない限り、前記のような問題につき審理、判断することは、なんら差支えのないところというべきである。これを本件についてみるのに、本件においては被上告人が上告人寺の代表役員兼責任役員たる地位を有することの前提として適法、有効に上告人寺の住職に選任せられ、その地位を取得したかどうかが争われているものであるところ、その選任の効力に関する争点は、被上告人が上告人寺の住職として活動するにふさわしい適格を備えているかどうかというような、本来当該宗教団体内部においてのみ自治的に決定せられるべき宗教上の教義ないしは宗教活動に関する問題ではなく、専ら上告人寺における住職選任の手続上の準則に従つて選任されたかどうか、また、右の手続上の準則が何であるかに関するものであり、このような問題については、それが前記のような代表役員兼責任役員たる地位の前提をなす住職の地位を有するかどうかの判断に必要不可決のものである限り、裁判所においてこれを審理、判断することになんらの妨げはないといわなければならない。そして、原審は、上告人寺のように寺院規則上住職選任に関する規定を欠く場合には、右の選任はこれに関する従来の慣習に従つてされるべきものであるとしたうえ、右慣習の存否につき審理し、証拠上、上告人寺においては、包括宗派である日蓮宗を離脱して単立寺院となつた以降はもちろん、それ以前においても住職選任に関する確立された慣習が存在していたとは認められない旨を認定し、進んで、このように住職選任に関する規則がなく、確立された慣習の存在も認められない以上は、具体的にされた住職選任の手続、方法が寺院の本質及び上告人寺に固有の特殊性に照らして条理に適合したものということができるかどうかによつてその効力を判断するほかはないとし、結局、本件においては、被上告人を上告人寺の住職に選任するにあたり、上告人寺の檀信徒において、同寺の教義を信仰する僧侶と目した者の中から、沿革的に同寺と密接な関係を有する各末寺(塔中を含む。)の意向をも反映させつつ、その総意をもつてこれを選任するという手続、方法がとられたことをもつて、右条理に適合するものと認定、判断したものであり、右の事実関係に照らせば、原審の右認定、判断をもつて宗教団体としての上告人寺の自治に対する不当な介入、侵犯であるとするにはあたらない。原判決に所論の違法はなく、論旨は、ひつきよう、独自の見解に立つてこれを論難するに帰し、採用することができない。
同第二点及び第三点について
所論の点に関する原審の認定、判断は、原判決挙示の証拠関係に照らし、正当として是認することができ、その過程に所論の違法はない。論旨は、原審の専権に属する証拠の取捨、事実の認定を非難するか、又は独自の見解に立つて原判決の不当をいうものにすぎず、採用することができない。
よつて、民訴法四〇一条、九五条、八九条に従い、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり判決する。
(本山亨 団藤重光 藤崎萬里 中村治朗)
上告代理人松井一彦、同中根宏、同落合光雄、同大谷昌彦、同市野沢邦夫の上告理由
第一点 原判決には、憲法第二〇条第一項および第三項の解釈に誤りがある。
一、原判決は、本件を判断するには、被控訴人(被上告人)が控訴人(上告人)の住職に選任されたかどうかの事実認定を前提とすることは当然である。ところで、住職自体は宗教上の地位であるから、右の認定には、宗教的な要素もある程度関係がありうるが、裁判所は、宗教上の教義の内面にわたる解釈、判断は別として(これは元来、法的判断の対象外である)、それ以外の客観的な事実関係については、宗教的色彩のものであつても、必要があれば認定することができ、またその職責を有するものである。特に住職の地位の紛争のごときは、その選任権や手続の問題が主であり、教義上誰が住職としてふさわしいかという問題とは異なるのであるから、選任に関する慣習、伝統、条理等につき裁判所が認定しうることは、むしろ当然であり、これをしたからといつて宗教自体に介入することにはならない。控訴人(上告人)の主張は、宗教法人の代表権や財産関係等法的な面について、裁判所による公権的判断ができない場合を認めることになり、とうてい採用できない」と判示している(引用文中の傍点は上告人による)。
右判示は、法人の代表権や財産関係等についてはつねに司法審査の対象になるとの前提に立ち、いやしくも法律上の地位ないし財産上の権利の存否が問題とされる限り、宗教的色彩を有するもの、すなわち教義信仰ないし宗派内の対立抗争に関しても裁判所の介入を認めるものであつて、憲法第二〇条第一項および第三項の解釈を誤つたものである。
その理由は次のとおりである。
二、そもそも憲法第二〇条は、フランス革命以来基本的自由権の核心をなすものの一つとされてきた信教の自由およびその制度的保障としての政教分離の原則を規定するものである。信教の自由の内容は、個人の内心における信仰の自由、宗教表現の自由、宗教伝道の自由、宗教行為の自由と共に宗教結社の自由を含んだものであり、それに基き宗教団体の自由、すなわち、宗教団体の宗教活動や宗教団体内の事項に関する自律権をも当然に含むものである。また、政教分離の原則は、信教の自由を実質的に確保する手段として歴史的に形成されてきた原則であり、その基本理念は、国家は国民の世俗的・現世的生活の問題だけに自己の要求を限るべきであつて、国民の内面的信仰的要求に関する問題は、国民の自律に委ねるべきであるというのである。そして、この原則は、国家機関が国民の宗教的信仰の問題に介入したときは、国民の精神生活上の課題を根本的には解決できなかつたばかりでなく、必ず政治の非民主化ひいては人権の抑圧をもたらし、また宗教団体の破滅ないし腐敗をもたらした、という人類の歴史の反省の上に確立されてきたものである。日本国憲法においては、この原則は、国が特定の宗教団体に特権を与えたり(第二〇条第一項)、国民に宗教行為を強制したり(同条第二項)、国が宗教活動を行なつたり(同条第三項)することを禁ずるという形で規定されているのである。したがつて、右の規定は、国の機関たる裁判所が、特定の宗派の教義や宗教上の慣習の解釈・判断を禁止するものである。もし、裁判所が特定宗派ないし寺院について住職選任に関する慣習の存否ないしはその内容、これのない場合にその宗派ないし寺院においてはいかなる選任方法に条理を認めるべきか等の紛争を裁判することが許されるとすれば、裁判所は、対立する慣習解釈や教義の正統性の争いに判定を下すことによつて宗教論争や党派的対立に介入し、その一方の派に国の強権による保護を与えることになるのであるから、それは憲法第二〇条によつて禁止された、国が「宗教活動」を行ない(同条第三項)、ないしは国が特定の宗派に「特権」を与える(同条第一項)ことに帰着するのである。その結果、本来宗教者の良心に任せられるべき領域に裁判所という国家権力が干渉することにより、宗教の教義ないし信仰の自由な展開は阻害され、宗教団体の自発性が失われるばかりでなく、ひいては、裁判所が宗教論争に巻きこまれ、さらにはこれと結びついた政治上の争いに巻きこまれることは、人類の歴史の示すところである。
三、右の法理は、憲法第二〇条とその思想的背景および立法趣旨を共通にする米合衆国憲法修正第一条の下でも、長い年月の曲折と試練を経て確立された原則となつている。たとえば、教義問題にからむ教会財産の帰属をめぐる紛争は、しばしば裁判所に提起され、一部の州裁判所の判例法上は、本件原判決の前記判示と同様の論拠を用い、いやしくも財産上の請求であれば司法審査に親しむとの見解もかつて行なわれたことがあるが、一九六九年米国連邦最高裁判所は全米長老派教会対メアリ・エリザベス・ブルー・ハル記念長老会事件(393 U.S.440,450)(事案は、地方教会であるハル教会は、かつて全米教会に帰属し、ハル教会の財産の所有権は宗派の規定により全米教会に帰属していたところ、全米教会がベトナム戦争に反対したり、女性を長老に任命したりしたこと等が帰属当時の基本的教義からの逸脱であるとしてハル教会は全米教会を脱退し、前記財産について所有権を主張したもので、ジョージア州最高裁判所は、ハル教会の財産は、全米教会の教義が基本的に変更されることはないという黙示の条件により信託的に全米教会に移転していたものであるから、全米教会において基本的教義からの逸脱があれば、信託は終了し、財産権はハル教会に復帰するといういわゆる黙示信託理論を採用し、同事件においては基本的教義からの逸脱はあつたと認定し、ハル教会の所有権を認めたのに対し、全米教会が右判決は違憲であるとして連邦最高裁判所に上告したものである。)において、次のように判示した。
「教会財産をめぐる訴訟の結果が、宗教上の教義ならびに行為についての意見の対立に関する国の裁判所の判断にかかつている場合、憲法修正第一条の保護しようとしている信仰の自由に関する諸権利は、明らかに侵害の危険にさらされることになる。裁判所がそのような財産上の紛争の法的解釈のため、そのような意見の対立を裁定しようとするならば、宗教教義の自由な発展を妨げるばかりでなく、純粋に宗教団体内部に関する事柄に世俗的利害をからませる危険性がつねに存在することになる。この危険の故に、修正第一条は、宗教上の目的のために政府機関を使用することを基本的に禁止しているのである。したがつて、この修正第一条は、国の裁判所が教会財産に関する紛争の根底に存する教義上の論争を解決することなしに判決することを命じているのである。ジョージア州裁判所の適用した黙示信託理論における基本的教義からの逸脱という要件は、全米教会のための黙示的信託が終了したと宣言することができる程度に、各地方教会が全米教会に帰属した当時の信仰と実践に関する教義からの「基本的な逸脱」を全米教会の行動が示しているか否かを判断することを国の裁判所に求めるものである。この判断は、二つの点においてなされる。まず、国の裁判所は、問題となつている全米教会の行動が基本的に教会の従前の教義から逸脱しているか否かを決定しなければならない。その決定をなすためには、国の裁判所は、必然的に過去の教義と現在の教義とを解釈分析しなければならない。もし、国の裁判所がそこに基本的逸脱があると判断するならば、次に、国の裁判所は、その逸脱が黙示的信託の終了を求め得る程度に宗教上重要な意味を有するか否かを判断しなければならない。国の裁判所は、教義逸脱のその宗派の教義における相対的重要性を判定してはじめて事件につき裁判をなすことができるのである。このようにして、ジョージア州判例法にみられる黙示的信託論における教義逸脱の要件は、国の裁判所に宗教の核心に関する事項、すなわち、特定宗派の教義を解釈すること、およびその教義のその宗派における重要性についての判断を強いるものである。憲法修正第一条は、明らかに国の裁判所がそのような役割を果たすことを禁じている。」
また、その後、米国連邦最高裁判所は、一九七〇年同種の事案であるメリーランドおよびヴァージニア教会対シャープスバーグ教会事件(396 U.S.367)の補足意見の中で、裁判所は紛争解決のためといえども「宗教上の規則または慣習に立入つた調査」または「宗教組織に立入つた大がかりな調査」を回避すべく細心の注意を払わなければならないことを強調している。
さらにまた、本件原審係属中であつた一九七六年(昭和五一年)六月二一日米国連邦最高裁判所は、主教の選任、解任、停職等の手続違背に関しても国の裁判所が判断することは修正第一条および第一四条に違反すると判示し(セルビア東方正教会米合衆国カナダ主教区対ミリヴオイエヴイツチ事件、判例集登載頁追完)、右原則は、いまや米国においては確立された判例法としての地位を与えられるに至つたものである。
四、このようにして、憲法第二〇条は、裁判所が判決主文であるか理由中であるかを問わず、いかなる場合においても宗教問題についての判断を示すこと自体を禁止するものであるから、それは、宗教教義や信仰の対象物についての争いが直接訴訟の目的となつた場合のみならず、訴訟物こそ法律上の地位ないし財産法上の権利ではあるが、その存否を決する前提として教義の解釈如何が判断の対象となる場合にも許されないのは当然であり、この法理は、いわゆる政治問題をめぐる訴訟である衆議院の解散を無効として議員資格確認並びに歳費請求をした苫米地事件について最高裁判所が当然の前提として採つている立場である(昭和三五年六月八日大法廷判決・民集一四巻七号一二〇六頁、なお最高裁判所昭和四一年二月八日第三小法廷判決・民集二〇巻二号一九六頁も同様の論点を含んでいる)。
五、原判決は、冒頭引用の通り「宗教的色彩のものであつても」という慎重な表現を用い、法律上の地位ないし財産上の請求権の存否を判断する前提としてならばどの程度まで宗教問題に介入することができるかについては、ことさらその限界を明確にすることを避けているが、原判決が上告人の抗弁を排斥する論拠として、「控訴人(上告人)の主張は宗教法人の代表権や財産関係等法的な面について、裁判所による公権的判断ができない場合を認めることになり、とうてい採用できない」ということは、論理上必然的に前提問題としてならば宗教上の判断をなすことを肯定するものであり、その立場は憲法第二〇条に違反することは明らかである。
六、本件の宗教上の主要な争点は、住職選任に関する慣習の存否およびこれが否定された場合の条理の探求に存する。この場合、上告人主張の慣習の存在を認め、吉田義誠の住職就任の効力を肯定するためには、必ずしも宗教的判断を要しない。吉田義誠が大学頭に任命されたことおよび前住職死亡の際は大学頭が当然後任住職に就任する慣習のことを認定すれば足り、これらはいずれも原判決のいう「客観的事実」に属し、また、宗派内の対立抗争についてなんら正邪の判断を示すものでもないからである。しかしながら、右慣習の存在を否定し、吉田義誠の住職就任の効力を否認するためには、宗教教義に関する判断を避けて通ることは絶対に不可能である。すなわち、原判決も認定するように、前住職由比日光の意向が吉田義誠を後任住職とするにあり、この意向に基いて吉田義誠が大学頭および副住職に任命されたものであり、その後、本門宗の教義に基いて「血脈相承」の儀式が行われている。それにも拘わらず、後任住職就任の効力を否定するとすれば、「血脈相承」の教義上の意義、血脈相承が特定の者に対して行われているのに拘わらず他の者が法灯を承継することが教義上許されるか等の純粋な宗教問題について解釈することを要する。また原判決が引用する第一審判決は、「寺院を代表して一定の教義のもとに檀信徒を教化育成する等の宗教活動を行う住職は、原告(被上告人)の主張の如く檀信徒の信仰的主柱をなすものともいえるから、最小限当該寺院の教義を信仰する僧侶であることが必要である」とし、「原告(被上告人)は大正一〇年頃前住職由比日光の弟子となり、以後約四〇年間に亘り同人の薫陶を受け、右選任の際は被告(上告人)本門寺の末寺である千葉市今井町所在の福正寺の住職であつた」ことをもつて、被上告人が上告人寺院の教義を信仰する僧侶であるかのように認定しているが、被上告人が由比日光存命中から教義上も対立関係にあり、一方吉田義誠が由比師と師弟関係に入つたことは隠れもない事実であり、被上告人が住職である福正寺は、上告人が教義上の理由に基いて日蓮宗離脱後も同宗との包括被包括関係を維持し、本件紛争後訴訟対策上単立寺院の形式はとつたが、その実体は依然日蓮宗身延派の強い影響下にあることは、原審において同派の熱心な信者であることが公知な高名な弁護士が被上告人の訴訟代理人に選任されたことからも明白である。一方、上告人寺院は原判決理由第二第一項認定のような宗教的分合の歴史を有している。このような場合実質的に日蓮宗身延派に属する被上告人と日蓮正宗に属する吉田義誠のいずれが上告人寺院の教義である本門宗の教義を信奉する僧侶といえるかどうかの判断は、右三宗派の教義を比較対照して解釈することなしにはとうていできないことは明らかである。また、かつては本末関係にあつた寺院が異宗派に属するようになつた後も、依然として旧本山の人事に末寺住職らの意向の反映を認めるべきかについても、宗派分合の教義上の意義および重要性を解釈判断することなしには決して正当な結論を導き出すことはできない。
七、さらにまた、原判決は、本件係争を前住職の意向か檀信徒および末寺の意向かという単純な二者択一に図式化し、「本件のように檀信徒および末寺(塔中を含む、以下同じ)の大方の意向が現住職に反対の立場であるような場合、これを無視して住職の意思を尊重するよりも、檀信徒、末寺の意向によるとするのが、従来の伝統にも沿い、より妥当というべきである」とする。しかしながら、檀信徒総会が住職を選定しえたことが、いまだかつて一度たりともなかつたことは、原判決も認定する客観的事実であり、檀信徒の大方の意向を尊重することが従来の伝統にも沿うという根拠は全くない。しかも、原判決は、檀信徒の文字通りの総意を認めるものではなく、「少くとも四〇八名の三分の二以上である少くとも二八〇名」が被上告人を支持したとし、吉田義誠を支持する「直檀」約一一〇名の存在も認定しているのであるから、上告人寺院の住職選任について多数決原理の適用を認めるもので、原判決の趣旨は、上告人寺院に民主制を認めようとするものにほかならない。しかしながら、これこそ宗教法人の特殊性を無視する無暴な見解といわなければならない。けだし、一定の目的のために団体を形成した社団と、布教のため檀信徒を教化育成する宗教団体とは本質的に異るのであつて、後者は本来多数決原理とは相容れれないものである。およそすべての宗教がまず異端(少数派)よりはじまつたことは冷厳な歴史的事実であり、そこには民主的多数決原理を適用する余地は全くない。もしこれが許されるとすれば、たとえば、異教地域ないしは反宗教地域に布教のため寺院を建立した住職はつねに解任の危険にさらされ、末寺の多数が造反した場合は本山といえどもその支配下におかれ、対立宗派は反対派の寺院に檀信徒を送り込み多数派工作によりこれを乗取ることも可能となり、寺院内に二派が対立した場合(本件はまさしくこの場合にあたる)、教義の正統性よりは量的多寡によつて住職の地位がおびやかされることになる。その不合理であることはいうまでもなく、このような宗教的対立抗争は自由な論争による自律的な解釈に委ね、裁判所がこれに介入してその一方の党派(仮りに真実それが多数であるとしても)を支持することを禁止しているのが憲法第二〇条にほかならない。
八、このような原則は、前記の通り、現在、米国憲法上の原則として確立されているものであるが、実は、同憲法修正第一条が各州に適用される以前においても、すでに米国連邦最高裁判所において採用されている。すなわち、一八七一年のワトソン対ジョーンズ事件(13 Wall 679)において、同裁判所は、「法はいかなる異端も(正統も)知らず、あえていかなる教義を支持するものでもなく、また一宗派を樹立しようとするものでもない」として、宗教事項について自律権を有することに論及した後、「もしそのような団体の決定の一つによつて権利を侵されたとする者が誰か一人でも、裁判所に訴えてその決定を破棄させることができれば、そのような宗教団体は完全に破壊されるに至るであろう」と判示した。そして、このような判例の基礎の上で、憲法修正第一条が各州に適用されるに至つた後は、一九五二年のケドロフ対ロシア正教会事件の判決(344 U.S.94)においてワトソン事件の原則が憲法上の原則にまで高められ、前記全米長老派教会事件およびセルビア東方正教会事件により、ついに憲法判例法上の地位が確立されたものである。
以上により、原判決に憲法第二〇条第一項および第三項の解釈の誤りがあることは明らかであり、原判決は破棄を免れない。
第二点、第三点<省略>